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「銀河こちらの準備は完了だ」

「陽一それじゃ部長、カウントダウン始めますよ。3――」

――抜けるように高い空。

一面の青。

「陽一2――」

僕たちは、遙かな高みを目指していた。

「陽一1――」

それは、宇宙への挑戦。

人類の夢。

「陽一――ゼロ」

「銀河ひまわり21号、発射!」

青い空を切り裂くように、ロケットが飛んでいく。

僕たちの夢をのせて、高く、高く……。

どこまでも……。

――あ。

「銀河……」

「陽一…………」

学校の屋上から飛び立ったロケットは、グラウンドの方向に消えて――。

……ドーン

「銀河ひまわり21号、墜落」

「陽一――――ですね」

「銀河やはり、まだ航行プログラムに問題があるようだな」

「陽一けど今回はかなりの高度まで行きましたよ」

「陽一宮浦タワーは超えたんじゃないですか?」

「銀河ふむ、間違いなく新記録だな」

「陽一うーん精度を犠牲にしすぎたのか、それとも……」

「銀河はっはっは、まぁ気にするな日向部員」

「銀河実験に失敗はつきものだよ。次に成功すればいい」

「陽一…けど、そうも言ってられないみたいですよ」
墜落したロケットはグラウンドの真ん中に突き刺さって煙を上げている。

しかも、陸上部の練習中のグラウンドにだ。

うわ…山内先生がこっち見てる。

「銀河これはまずいな」

「陽一また予算削られますね」

「銀河山内は男のロマンが理解できないのだよ」

「陽一22号からはペットボトルで作りますか?」

「銀河はっはっは、それは面白い発想だな」

「銀河ペットボトルロケットで月へ」

「銀河――まさに男のロマンだ」

「陽一いいですね、ロマンですね」

「銀河なんでだって行けるさ。月は地球から一番近い天体なんだ」

見上げれば、青く澄んだ空。

そう、僕たちは遙かな高みを目指していた――。

「男こらお前たちっ、ナニをやっとるか!」

振り返ると、昇降口に山内先生がすごい形相で立っていた。

さすが陸上部の顧問、グラウンドから屋上まであっという間だ。

「銀河うぬ。山内いつの間に」

「陽一まずいですよ部長。逃げましょう」

「銀河よし日向君、例のモノを」

「男お前ら…今日という今日は生徒指導室で夜を明かしてもらうからな!」

「陽一準備できました部長!」

「銀河よしっ!」

「銀河――ふははっ。山内君、キミのその熱意は認めよう」

「銀河しかしキミは、一つ重要なことを見落としていたようだ」

「男 ― ― なッ!?」

部長の姿が屋上から消える。

――いや、消えたんじゃない。

部長は手すりを乗り越え、中空に身を躍らせていた。
僕も覚悟を決めて後に続く。

そして ― ― 。

パシッ

壁に沿ってたれ下げられた縄ばしごを掴む。

いざという時のために、屋上に仕掛けておいた物だ。

下を見れば、早くも降りきった部長が前庭を駆けていた。

「男なんて奴らだ……」

「銀河ふははっ!!よく覚えておきたまえ、山内君」

「銀河――宇宙部に、不可能はないということをな!!」

2050年3月20日、23時38分の空。

天頂に輝くは満月。

月、それは人類が地球以外で唯一到達した天体である。

宇宙開発が始まって以来、世界各国は競うように月を目指した。

まるで、そこが人類の帰るべき場所であるかのように。

だが、実際に有人月着陸を果たしたプロジェクトはたった二つ。

アメリカのアポロ計画と、日本のかぐや計画である。

ニール・アームストロングと雨宮大吾の名前は、宇宙に興味のない者でも聞いたことがあるだろう。

特に雨宮大吾による単独月着陸の成功には世界が大いに沸いた。

今から20年ほど前、2029年8月23日のことである。

彼の月からの第一声は、教科書にこそ載っていないものの、多くの人の心に刻みつけられている。

その有名な文句は、こう始まる。

「陽一――これは人類にとっては小さな……」

『?ねー、もうその話は聞き飽きたよぅ』

電話口の向こうで明香(あすか)が口をとんがらせているのがわかった。

「陽一なんだよ、この一言から輝かしい宇宙開拓時代が始まるってのに」

『明香ハイハイ、陽一君の宇宙マニアっぷりはよーっく知ってるから』

「陽一まったく、これだから明香は…。このロマンがわからないのか?」

『明香なーに?ペットボトルを飛ばすのの、ドコにロマンがあるの?』

さっきの話だ。
僕は武勇伝のつもりで聞かせたってのに、明香のヤツは笑い話程度にしか思っていないのだ。

『明香それよりも、だよ。屋上から飛び降りるなんて、なに考えてるの?』

『明香ケガなんかしたら、シャレにならないんだからー』

「陽一あ、あはは…」

実は着地に失敗して頬を軽く切ったんだけど、これは秘密だ。

地面に顔面からつっこんだなんてかっこ悪い話、明香にしたらまた馬鹿にされるし。

『明香もうあんなのと付き合うのはやめなよー。陽一君まで不良扱いされちゃうよ?』

「陽一あんなのって、部長のこと?」

『明香他にダレがいるの。あのヒゲのことだよ』

「陽一部長はああ見えていい人なんだよ。なにより熱意がある」

『明香あーあ、なんで陽一君はこんな風に育っちゃったかなぁ』

『明香昔の純粋無垢な陽一君はドコに行ったんだろ…』

「陽一なんだよそれ」

昔って言っても、知り合ったのはほんの2年前じゃないか。

明香とは高校の同級生――というよりは幼なじみだ。

2年前に知り合って幼なじみというのもなんだかおかしいけど、まぁそれに近い関係だ。

屋根に登り、満天の星を見上げながら、気の置けない友達とだらだらとお喋りをする。

僕はこんな時間が好きだった。

「陽一明香の心配する気持ちもわかるけどさ、今はちょっと忙しいんだよ。もうすぐ文化祭だろ?」

『明香ええっ、あいつ、文化祭にも出るの!?』

『明香ちょっと~、ボクたちの高校でバカなコトしないでよー』

「陽一バカとか言うなよ」

『明香じゃあ訊くけど、文化祭で何しでかすつもりなの?』

「陽一月に行く」

『明香…………』

『明香……バカ?』

う、疑問形で言われると余計きついなぁ。

そりゃ僕だって、あんなへなちょこロケットで月まで行けるなんて思ってないけどさ……。

志だよ、こころざし。
少年なんだ、大志くらい抱かせてくれ。

『明香それより明日の事なんだけどね ― ― 』

「陽一ああ、従妹が遊びに来るんだったっけ?」

『明香うん。明日は朝からお迎えに行かないといけないんだ』

『明香だから、陽一君のお家には遊びに行けないんだよ』

「陽一気にしなくていいって。そうでなくても最近、世話になりっぱなしだし」

『明香うん、ごめんねー』

ごめんなんて、とんでもない。

明香は一人暮らしをしている僕の身を心配して、たびたびうちにご飯を作りに来てくれる。

いや、たびたびなんてもんじゃないな。

特にここ最近は春休みなのをいい事に、ほぼ毎日だ。

しかも食事の用意だけじゃなくて、掃除に洗濯に…。

「陽一ごめんなさい」

『明香えっ、なになに!?』

つい謝っていた。

なんで、こんないいトコのお嬢様が僕なんかに甲斐甲斐しくしてくれるのか。

全くもって謎だ。

僕って、そんなに生活力なさそうに見えるんだろうか?

「陽一いや、なんだか明香に迷惑ばっかりかけてるなぁと思って」

『明香またそーゆーこと言う!陽一君はね、ボクにどーんと甘えちゃえばいいの』

ただし困ったところもある。

明香は何かにつけて、こうやってお姉さん風を吹かせて僕を子供扱いしようとするのだ。

実際に明香が年上なら、まだいい。

同級生に面倒を見られていると思うと、正直微妙な気分だ。

『明香だいたい陽一君、ボクがいないとご飯もまともに作れないじゃない』

「陽一そんな事ないって。僕だって料理の一つや二つ…」

『明香じゃ、明日の献立の予定は?』

「陽一……カップラーメン」

『明香ほらぁ!』
正直、明香に頼りきりだから料理を覚えないというのもあると思う。

けど、そんな無粋な言い訳はしない。

――だって、明香の料理は、美味しいんだ。

下手なことを言って、作りに来てもらえなくなったら困るじゃないか。

『明香ね、今、星見てる?』

「陽一ああ」

『明香ボクも見てるよ。ねぇねぇ、星座教えて?』

宇宙開拓史には五分で飽きたくせに、これだ。

なんで女の子って、星とか星座の話は好きなんだろう。

「陽一そうだな、今ならちょうど…南の空に、春の大三角が見えてる」

『明香春のダイサンカク?』

「陽一乙女座のスピカ、牛飼い座のアルクトゥルス、獅子座のデネボラの三つを結ぶと大きな三角形になるん
だ」

『明香……』

『明香…………』

『明香………………どれ?』

まったく仕方がないなぁ。

「陽一今見えてる星の中で、一番明るくてオレンジ色をしてるのがアルクトゥルス」

『明香…え…え??』

「陽一南東の高い位置にある」

『明香…えっと……あ、あれかな?』

「陽一そこから右下を探すと、青白くて明るい星があるだろ?それがスピカ」

『明香…うん、たぶん見つけた』

「陽一更にそこから右上の方、だいたい正三角形になる位置にあるのがデネボラ。今度は少し暗い星だよ」

『明香…………』

しばらくして、電話口から明るい声が聞こえてくる。

『明香なるほどねー、これが春の大三角なんだ』

一番見つけやすい三つの星を探すのにこの苦労だ。

『明香ねぇねぇ、他には他にはっ?』

「陽一電話越しじゃ、これ以上は無理だよ」
『明香えーっ。じゃあ、今度いつか一緒の時にね』

「陽一ああ、そうだな」

だけど、星を見るといったら夜なわけで。

二人で同じ夜を過ごす時なんて、いつか来るのだろうか?

いい年した男女が、それはないんじゃないだろうか。

………いや。

明香なら、唐突にお泊まりセットを片手にやって来かねないな……。

『明香あ、ごめんね。明日早いから、そろそろ…』

気がつけば、ずいぶん長く話し込んでいた。

明香と話していると――正確には星の話をしていると、つい時間が経つのを忘れてしまう。

「陽一ああ、そうだったな。ごめん、長話に付き合わせて」

『明香陽一君、明日はちゃんとご飯作らないとダメだよ?』

「陽一…はいはい」

「陽一それじゃ、また――」

『明香うん、おやすみー』

ぷつん、電話が切れる。

……。

唐突に訪れる静寂。

その瞬間、自分の体が冷め切っていることに初めて気づいた。

春とはいえ、まだ夜は寒い。

僕も早くあったかい布団に戻ろう……。

「陽一……」

でも、もう少しだけ。

月がこんなに綺麗な夜は珍しい。

僕は屋根の上に寝転がって、天を仰いだ――。

……。

月が明るく、天体観測には不向きな夜だった。

星の数、ざっと500余り。

宇宙に輝く幾億の星からすれば、ここから見える星はごくわずかだ。
だけど、空に浮かぶは満月。

こうやってただ眺めるには絶好だ。

月と星と、ただそれだけ。

春の月見というのも、なかなか乙かもしれないな――。

「陽一――ん?」

きらり、空の端で光る物があった。

流れ星?

そういえば、流れ星が消えてしまう前に願い事を三回唱えるとそれが叶うという言い伝えがあった。

たわいもないおまじないだ。

大抵、願い事を唱え終わる前に流れ星は消えてしまう。

それどころか、何を願おうか考える暇さえないことが殆どだ。

けど…そうだな。

掛けてみるのもいいかもしれない――星に、願いを。

光は、まだ消えない。

なら、僕の願いは――。

願いを三度、唱えた。

視線を空に戻す。

そこには、未だ尾を引く一筋の光。

光はまっすぐに伸びていく。

……――え?

流れ星の正体は、宇宙を漂うチリだ。

大気圏に突入してから燃え尽きるまでの時間は1秒弱。

アレは軽く5秒は発光している。

まれに、大気中で燃え尽きずに地表に到達する物があると聞く。

――隕石。

まさか、とは思う。

けど現に、それは地表に近づきつつあった。

間違いない、落ちる。

しかも、近い!
ぐんぐんと迫るそれは、まるでもう一つの月。

真っ赤な、月。

…赤……。

…赤い世界……。

……赤い記憶……。

血の香り。

鼻腔を灼くような熱気。

柔らかな唇の感触と、涙の味。

轟音と軽い地響きに、僕は現実に引き戻された。

―――落ちた。

…行かなくちゃ。

僕は、自分でも理解できない衝動に突き動かされ、家を飛び出した。

落下場所は、奇しくも記念公園の方向だった。

2年前の悪夢の場所。

全てが、始まった場所。

記念公園への道のりは、途中までは通学路と同じだ。

学校の少し手前で、右手に曲がればいい。

その、まさに分岐点で ― ― 、

「男 ― ― 日向君」

聞き覚えのある声に呼び止められた。

「陽一部長!もしかして部長も――

ってうわぁ!?」

「男どうしたのかね、突然目をひんむいたりして」

――そこに、兵士がいた。

いや、兵士じゃない、部長だ。

我らが宇宙部部長、雨宮銀河だ。

雨宮銀河(あまみやぎんが)――冗談みたいな名前だけど、これが本名だ。

いや、そんなことより、この格好は一体……。

「銀河はっはっは。緊急事態に、思わずパジャマのまま飛び出してきてしまったよ」
ぱ……ぱじゃま……?

でもその、肩からかかっているマシンガンは!?

「銀河しかも枕を抱えたまま来てしまうとは」

……まくら……?

「銀河日向君もここにいるということは…やはり見たのかね、アレを」

「陽一え…あ、はい。隕石が公園の方に墜ちていくのを見ました」

「銀河隕石?はははっ、何を言っているのかね」

「銀河あれはUFOだよ」

「陽一……はい?」

UFOって、宇宙人の乗り物で、お椀型をしているあのUFO?

「銀河例の落下物、あの距離からはっきり目視できたということは、大きさはだいたい5~10メートル」

「銀河隕石の破壊力は強大だ。5メートルを超える隕石が落下したならば、今頃この宮浦の町は火の海だろう
な」

「銀河――しかし、そのような様子はない」

「陽一じゃあ……隕石じゃ、ない?」

「銀河うむ。しかし小型機や気球の墜落だとしたら、赤く光っていた理由がわからない」

「銀河あの赤は摩擦熱による炎色反応だろうからな」

「銀河よって未確認飛行物体、即ちUFOと称されるべきだ」

なんだ……そういうことか。

宇宙人なんて、そんな非現実的な事あるわけがない。

…………。

……でも……。

――じゃあいったい、アレはなんだ?

「銀河我らが宇宙部の三つの指針を覚えているか?」

「陽一え…?えっと、なんでしたっけ」

「銀河宇宙の理解、宇宙の調査、宇宙への挑戦、だ」

ああ…そういえばそんなのもあった気がする。

なんだか恥ずかしいので、すっかり忘却の彼方だった。

「銀河例のUFOの正体を解明すること、それはつまり宇宙の調査にあたる」
「銀河行くぞ日向部員、これは部活である!」

「陽一はいっ」

記念公園まで、あと少し。

僕たちは再び走り出した。

記念公園。

2年前の事故の跡地に作られた公園だ。

高々度旅客機SA-DAN080型墜落事故。

死者518人。

悲惨な事故だった。

SA-DAN080型は、西園寺グループの開発した初の民間用高々度旅客機――いわゆる『スペースプレー
ン』だ。

一度に500名の旅客を、衛星軌道上のスペースコロニーまで輸送できる。

まさに新世代の乗り物だった。

その記念すべき試乗式が行われたのが、今から2年前。

まだ宇宙旅行という言葉が、輝かしい響きを伴って持て囃されていた時代のことだ。

試乗式には財界の著名人から何の変哲もない親子まで、様々な人が参加した。

彼らは民間人として初めて宇宙に飛び出すことになる、はずだった。

…………。

僕の足は止まっていた。

「……」陽一

目の前に、518の名が刻まれた慰霊碑がそびえ立っていた。

2年ぶりに見るそれは、僕にこう語りかけてきた。

――もしこの先へ進むのなら、相応の覚悟が必要になる。

――それでも先へ進むのか。

――遙かな高みを目指すのか、と。

「そうか…日向君はこの場所が苦手だったな」銀河

「どうする、この先へは俺一人で行こうか?」銀河

愚問だった。

その問いには、すでに答えている。

「いえ、僕も行きます」陽一
慰霊碑を尻目に、その奥、赤い火の手の上がる方へ急ぐ。

その場所には、小さなクレーターが出来ていた。

墜落の影響か、周囲の木々にはちろちろと赤い火が揺れている。

――それはまるで、2年前の再現。

なぜ、また、この場所で。

「……っ!」陽一

クレーターの中心に見えるもの。

……隕石?

いや、まさか。

それはどう見ても人工物。

まるで巨人の涙のような、流線型をした鉄の塊が大地に突き刺さっている。

反射的に脳裏にひらめいたのは、アポロだとかソユーズだとかの、帰還カプセル。

つまり、大気圏に再突入するための乗り物だ。

「どうやらビンゴだったようだな」銀河

「誰か乗ってるんでしょうか?」陽一

「果たして、『誰か』なのか『何か』なのか…」銀河

「は…はは…。冗談は抜きにしてくださいよ、部長」陽一

「俺はいたって真面目なつもりだが」銀河

「……」陽一

部長はそれに向かって足を踏み出していた。

慌ててその後を追う。

近寄ると、脇に小さなハッチが付いていてそこにハンドルがあるのがわかった。

「回せばいいんでしょうか…?」陽一

ごくり、思わずのどが鳴る。

「まぁそう身構えるな。何かがいたとしても、もう生きてはいまい」銀河

「……あ……」陽一

そうか、そうだった。

あの墜落の衝撃で生きてたら、それこそ化け物だ。

生きているはずがない。
生き延びられるはずがない……。

「……」陽一

―くらり ― ― 。

僕は目眩を覚えた。

生きているはずのない存在。

――生きていてはいけない存在。

――――バケモノ。

「…………」陽一

ならば、この扉の向こうにいるのは僕の同類だ。

僕は無意識のうちにそれに手を伸ばしていた。

「…あつッ!」陽一

「何をやっている!!さっきまで赤く燃えていたのを忘れたのかね!」銀河

「大気圏再突入時の機体表面の温度は、2000度にも達するのだぞ」銀河

どうかしている。

僕はさっきからどうかしている。

わかってはいるけれど、この衝動は止められなかった。

「部長、どうにかして開けられないでしょうか」陽一

「ふむ……とりあえず冷めるのを待って、そのあと工具で――」銀河

……遅すぎる。

それではだめだ。

僕はシャツを脱いで両手に巻き付け、再びハンドルに手をかけた。

うまい案だと思ったのは一瞬だった。

すぐに熱は布地を通り抜け、僕の皮膚を焼いた。

「日向君!」銀河

しかもハンドルは重く、うまく回らない。

僕は一体、何を必死になっているのだろう。

人助け?

……違う、そうじゃない。

理屈じゃないんだ。
僕はいつだって空を見上げてきた。

だから、空からやってきたこいつを見過ごすことなんてできない。

――きっと、それだけなんだ。

「くそっ!」陽一

そろそろ手が限界だ。

開け。

…開け!

……開け!!

がこん

衝撃と共に、ハンドルが回った。

「開いた…?」銀河

「……………」陽一

小さく開いたハッチの隙間から熱気が噴き出す。

くそ、中は蒸し風呂か!?

焼けただれた手も気にせず、ハッチをつかんで思い切り引き――。

「待て!」銀河

部長の手に遮られる。

「なんですか、早くしないと――」陽一

早くしないと、なんなんだ?

僕は一体、何をこんなにも恐れている?

「……誰かいる」銀河

「えッ!?」陽一

「振り返るなよ。背後の木の陰だ。じっとこちらの様子をうかがっている」銀河

「まさか…。いったい、誰が?」陽一

「さぁてな…。しかし、よくある話じゃないか。墜落したUFOと、それを回収に来る謎の組織」銀河

「…MIB……」陽一

MIB――メン・イン・ブラックなる組織の略称だ。

黒服に身を包んだ男達が暗躍する秘密組織。

ヤツらは極秘裏に地球外生命体との接触をおこなっている。
もちろん、現実にそんなモノは存在しない。

『UFOの目撃地点で黒服の男達がよく見かけられる』という噂から生まれた都市伝説に過ぎない。

――そう、都市伝説なのだ。

「ただの野次馬か、はたまた関係者か……」銀河

部長はゆっくりとした動作で、肩からサブマシンガンを下ろす。

「な…何するつもりですか?」陽一

「なに、ただの威嚇だよ」銀河

「当てなければ何も問題あるまい」銀河

そういうモノなのだろうか?

「行くぞ」銀河

瞬間、部長は銃を構えて身を翻す。

ダラララララッ

一瞬の掃射。

部長が狙ったであろう木は、枝が吹き飛び、皮が粉砕し舞い上がる。

「……」陽一

「…本物?」陽一

「無論オモチャだ。まぁ、炭酸ガスと鉛玉が装填されているがな」銀河

「……それ、違法ですよね?」陽一

「本物を持ち歩くよりはマシであろう?」銀河

…まったくだ、どうか本物は持ち歩かないでほしい。

「ふむ…逃げられたようだな」銀河

木の陰には人影の一つも見あたらなかった。

っていうか、食べ終わったリンゴみたいになってるよ、あの木。

「ホントに誰かいたんですか?」陽一

「ああ、確かに見た。黒い服を着込んだ男のようだったが…」銀河

黒服の男。

まさにMIBだ。

「まさか本当に…」陽一

本当にMIBというモノが存在して、しかもここに来ていたとしたら……。
背後にあるこの巨大なモノは、もしかして……。

悪寒がぞくりと背筋を駆け上った。

これは、僕たちなんかが触れちゃいけないモノなのかもしれない。

「……」陽一

――慰霊碑の前で、誓ったはずだ。

この先へ進むと。

高みを目指すと。

なら答えは一つだ。

「部長」陽一

「なんだね日向君」銀河

「もうロックは外れています。二人で力を合わせれば開くかもしれません」陽一

「うむ。俺もそう提案しようと思っていたところだ」銀河

頷き合って、ハッチの前に立つ。

夜空へ向かってそびえ立つモニュメント。

そのハッチに手を掛ける。

まるで、故人の墓を暴く墓荒らしのような気分だ。

まだ少し熱いが、気にしている場合じゃない。

「いきますよ」陽一

「ああ」銀河

……くっ。

――重い。

どこか歪んで引っかかっているのだろうか。

二人の力をもってしても、全く開かない。

「はは…まったくっ…宇宙の真理を追求するのも、骨が折れるな」銀河

「ほんと…ですね…っ」陽一

…ぎ、ぎ……

「…お、ちょっと開いたみたいだぞ」銀河

「くそ…っ…そろそろ手が……」陽一

「日向君、もう一息だ」銀河
「く…えい……っ!!」陽一

渾身の力を込めて引き上げる。

がこんと大きな音を立てて、ハッチは突然開いた。

月明かりが内部を照らし出す。

「…………」陽一

目が、眩んだ。

まぶしかったからじゃない。

扉の向こうの、その非現実なセカイに目が眩んだ。

「……は…」陽一

エイリアンでも居た方がまだ現実味があった。

――なのに。

「女の…子……?」陽一

四角い月明かりが差し込み、彼女の横顔を照らしていた。

熱気は夜風に流され、彼女の頬にかかる髪を揺らしていた。

月明かりに映える、透き通るような白い髪だった。

「生きて…るんでしょうか…?」陽一

「さぁてな」銀河

「ど、どうしましょう」陽一

「……俺に訊くな」銀河

「……」陽一

「キスでもしてみたらどうだ。息を吹き返すかもしれん」銀河

「キ、キス!?」陽一

「冗談だ」銀河

「こんな時にやめてくださいよ!」陽一

「待て」銀河

「なっ、何ですか今度は」陽一

「――聞こえるか?」銀河

「……はぁっ…」少女

「!?」陽一
か細い吐息。

――まだ、生きてる!

「ど、どうしましょう!?」陽一

「だから俺に訊くな」銀河

「じゃあ…じゃあ…」陽一

「ヨーイチ―――」少女

――え。

目の前に、少女の顔が迫っていた。

二つの赤い瞳が僕を捉える。

燃えるような、真っ赤な瞳だった。

少女は更に身を乗り出す。

真っ赤な瞳が、僕に――。

って、バランスが…崩れ……っ。

慌てて少女を抱き留める。

けど、それは失策だった。

支えを失った僕は、一緒に体勢を崩して――。

「え…わ……わーっ!?」陽一

月にはうさぎが住んでいる。

それはきっと、誰もが聞いたことのある話。

夜空に輝く満月を見上げ、誰もが思いを馳せたことのある光景。

月にはうさぎが住んでいる。

大きな杵で、餅をついている。

ぺたぺた、ぺたぺた。

いつまでも。

僕にはそれが、なんだか悲しい光景に思えるんだ。

白い、ただ白いだけの大地の上で、餅をつき続ける一匹のうさぎ。

その行為に果たしてどんな意味があるのだろうか?

だっておかしいじゃないか、うさぎが餅を食べるはずがない。

月のうさぎは、いったい誰のために餅をついているのだろうか?
答えなんて、うさぎだって知らないのだろう。

それでもうさぎは、餅をつき続ける。

ぺたぺた、ぺたぺた。

いつまでも。

きっとそれは、この星に生きる僕らも同じだ。

生きている意味もわからず、それでもなお、生きていく。

ぺたぺた、ぺたぺた。

いつまでも……。

この、あおい星の上で。

「…………」陽一

目を開けると、そこは満天の星空。

そうか、僕は気を失っていたのか。

一体何があったんだっけ?

……。

考えるべき事はたくさんあった気がするけれど、今はもう少し星空を見上げていたい。

月が明るくて観察には不向きな夜だ。

けど、こうやってただ眺めるには絶好だ。

月と星と、ただそれだけ。

いや違った。

視界にもう一つ割り込んでくるものがあった。

それはいったい、誰だっただろう。

ずっと昔から知っているような気もするし、初めて会ったような気もする。

「…ねぇ、君は誰……?」陽一

それが、出会い。

僕と。

「……アリ、エス」少女

――アリエス。

黄道十二星座の一つ、牡羊座の別名。

星の名を持つ少女との出会いだった。
………………。

…………。

……。

最初の記憶は、星空。

星と、月と、ただそれだけ。

満天の星空だった。

空にちりばめられた無数のきらめきが、ぼくの誕生を祝福してくれた。

もし人にも刷り込みというものがあるとしたら、この瞬間、ぼくは星に恋をしたのだろう。

それより前のことは何一つ思い出せなかった。

ただ、無限に広がる星の海の中に、ぼくが生まれたのだと思った。

だけどそれは違った。

体を起こすと、そこは地獄だった。

辺りは一面の焼け野原。

赤い世界。

夜風に運ばれてくる血の匂いが不快だったが、どうでもよかった。

何もする気が起きなかった。

体中が痛みを訴えていた。

まるで体がバラバラになったようだった。

自分の体が自分の物ではないみたいだった。

自分の名前を思い出そうとしてみたが、無理だった。

やがて、眠くなったので目を閉じた。

次に目を開いた時には、病院にいた。

後から、ぼくの名前は日向陽一であると教えられた。

そう――僕は、SA-DAN080型墜落事故の、唯一の生存者だった。

…………。

……。

……あれ?

僕、なんでリビングで寝てるんだろう。

「…うーん…」陽一
のっそりと体を起こす。

時計を見るとまだ4時前だった。

太陽さえ昇っていない時間だ。

ソファーなんかで寝ていたせいだろうか、頭がはっきりしない。

――なんだか、変な夢を見ていた気がする。

どんな夢だっただろう……。

零れ消えゆく記憶を、僕はかき集める。

……。

…………。

そう、僕は夜空を見上げていた。

ぼんやりと、なんの感慨もなく。

そこにあるのは、果てしない闇と――。

星と、月と、少女。

……え?

記憶を手繰る。

2年前じゃない。

昨夜の記憶だ。

確か、流れ星が公園の方に落ちるのを見て……。

追いかけて……。

……。

そこで、一人の少女に出会ったんだ。

その少女は傷だらけで、へんてこな服を着ていて、そして燃えるような赤い瞳をしていた。

……あまりにも荒唐無稽だ。

両の手のひらを見る。

火傷の跡が、ない。

ドコまでが現実で、ドコからが夢だったのか。

――わからない。

だけど、手のひらに感じたあの熱さ、少女のあの重さが夢だったとは思えない。

……。
更に記憶を手繰る――。

『大丈夫かね日向君』銀河

『え…ええ、ちょっと頭を打ったみたいですけど』陽一

『少女は?』銀河

『えっと…』陽一

アリエスと名乗った少女は、僕の胸の中で再び気を失っていた。

『寝息を立ててます。よくわからないけど、たぶん大丈夫なんじゃないでしょうか』陽一

『ふむ…』銀河

『…こいつは大事件だぞ』銀河

『空からUFOが墜ちてきて、中から女の子が出てきた――』銀河

『それだけではない。近くには怪しい黒服の男がうろついていた』銀河

『それは…僕は見てないから何とも言えませんけど』陽一

『いや、いたのだ』銀河

『これらの情報から考えるに――』銀河

『この少女は間違いなく、地球外生命体だ!』銀河

『ちきゅ……って、えぇ!?』陽一

『この子が宇宙人!?』陽一

『宇宙人…なるほどな、そう言ってもいいかもしれん』銀河

『何故ならこの少女は、完全にヒト型をしている』銀河

『いえ、地球外生命体でも宇宙人でもエイリアンでもいいですけど、この子が本当にそうなんですか?』陽一

『状況証拠から言えばな。詳しいことは調査してみないことにはわからん』銀河

『しかし彼女からは、国家規模の陰謀的な、かつ宇宙規模の神秘的な何かを感じるぞ』銀河

この子が……宇宙人……?

安らかに眠るその横顔からは、とてもそうは思えない。

でもこの子は、確かに空から――。

『というわけで日向君、この少女を保護したまえ』銀河

『――は!?』陽一

『は、ではないよ。保護という言葉が偽善的で嫌ならば軟禁でも監禁でも構わん』銀河

『とにかくこの少女をMIBの追っ手から遠ざけるのだ』銀河
『な、なんで僕なんですか!?』陽一

『うちには母も妹もいるからな。その点、日向君の家ならばなんら問題なかろう』銀河

『なるほど……じゃなくて!』陽一

『こういうことは警察に任せるべきじゃないんですか?』陽一

『何を言っているのだ。この子がそこらへんの迷子や孤児に見えるのかね』銀河

『それに、警察がMIBの手に落ちていないとも限らん』銀河

『……』陽一

『まぁそういうことだ、よろしく頼む』銀河

「……」陽一

そういえば、そんな話をした気がする。

なんてめちゃくちゃなんだうちの部長は。

まぁ、今に始まったことじゃないけどさ…。

そんなわけで、謎の少女を家に連れ帰ってきたのが今から3時間前。

意識を取り戻さない彼女を部屋のベッドに寝かせて、僕はソファーで寝ることにしたのだった。

「……」陽一

天井を見上げる。

「……」陽一

様子、見に行った方がいいよな。

僕は二階に上ることにした。

二階には四部屋あるが、今は一番奥の部屋、つまり僕の部屋しか使っていない。

その扉を開けると……。

「くぅ…くぅ…」少女

――いた。

しかも、穏やかな寝息まで立ててるし。

全部夢だったらいいのにという儚い願いは崩れ去った。

「……」陽一

さて、これは一体どういう事態だろう。

一人暮らしの僕の家に、女の子がいる。

しかも無防備な寝顔を曝している。
…………頭が痛い。

「……」陽一

とりあえず今はこのまま寝かせて ― ― 。

「…ヨーイチ………」少女

!?

今、なんて言った?

「むにゃ…」少女

――寝言か?

その唇が、何かを紡ぐように微かに動いていた。

よく聞き取ろうと、顔を近づける。

――え?

二つの赤い光が僕の目を捉える。

「……」陽一

「…………」少女

静止した時間の中、二人見つめ合う。

……やがて。

きゅるるるる

お腹の虫の、見事な鳴き声が聞こえた。

「……」陽一

「…………」少女

「……」陽一

「…………」少女

ど…どうしたらいいんだ……。

少女は、ホットミルク入りのマグカップを前に、さっきから固まっている。

何か食べられるものを用意できればよかったんだけど、あいにく僕にそんな甲斐性はない。

「……」陽一

「…………」少女

何て切り出せばいいんだろう、こういうとき。

「…え、えっと…」陽一
「?」少女

「!!」陽一

視線が合う。

少女の瞳は、思わず見とれてしまうほどに深い赤色をしていた。

…………。

その赤は、まるでいつかどこかで……。

………。

……って、見とれてる場合じゃなくてさ。

「牛乳、嫌いだったか?」陽一

「?」少女

「それとも熱すぎたか?」陽一

「…?」少女

……無反応。

もしかして、言葉が通じないのか?

いや……僕は確かに、この少女と言葉を交わした。

「……アリ、エス」少女

――アリエス。

黄道十二星座の一つ、牡羊座の別名だ。

……。

「――――アリエス?」陽一

おそるおそる口にしたその名前は、やけに耳になじむ響きを持っていた。

なじみのある、星座の名前だからだろうか?

不思議な感じだった。

「 ― ― はい」少女

――え?

少女が、にっこりと僕に向かって微笑んでいた。

「アリエスのなまえは、アリエスです」少女

「…あ……」陽一

まるで僕が名前を呼んだことが、少女に笑顔を取り戻させたような。
そう錯覚してしまうほどに、瞬間の変化。

「ここはドコですか?アリエスはどうしてここに?」アリエス

「…………」陽一

「??」アリエス

――おっと。

「あ、ああ、公園でのこと覚えてるか?」陽一

そう、僕らは記念公園で出会った。

流れ星を追いかけて、そこで星の名前を持つ少女と出会ったのだ。

なんという、巡り合わせだろう。

「あの後、気を失ったお前を背負ってうちまで運んだんだ」陽一

どうなることかと思った。

本当に宇宙人だったらどうしようかと思った。

「こーえん?」アリエス

ちょこんと首をかしげる少女。

だけど、こうやって話が通じるのなら――。

「こーえんって、なんですか?」アリエス

……え?

「……??」アリエス

……この感じ、覚えがある。

「……」陽一

それは、予感。

僕だからこそ感じられる、予感。

「…………名前は?」陽一

「さっきも言いました。アリエスです」アリエス

「……家族は?」陽一

「 ― ― かぞく?」アリエス

「歳は?」陽一

「……えっと…」アリエス

「なんで公園にいた?なんであんな物に乗ってたんだ?」陽一
「……ぇ…………」アリエス

「昨日は何をしてた?好きな食べ物は?一番仲のいい友達の名前は?」陽一

「…………」アリエス

「……………………」アリエス

間違い、ない。

「――何も、覚えてないのか?」陽一

「………」アリエス

「……はい?」アリエス

思わず天井を仰ぐ。

……。

……まいった。

いや――まだマシな方か。

だって、僕は、何一つとして覚えていなかったのだ。

自分の名前さえも、だ。

そしてきっと、自分の名前よりも大切だったであろうことも。

それに比べりゃ、名前を覚えているなんて上出来じゃないか。

そう――。

つまりアリエスは、記憶喪失だったのだ。

――2年前の僕と同じように。

「どーしましたか?」アリエス

アリエスが無邪気な顔で、僕の目を覗き込んでいた。

その赤い瞳に映るのは、どんな世界だろう。

すべての物が目新しく、輝いた世界だろうか。

それとも、何もかもが色あせて、虚ろな世界だろうか。

この少女の世界には、たった一つのものしか残されていない。

アリエス――自分の名前だけだ。

この、広い世界に、たった一人。

「……」陽一

覚悟は決まっていた。
それは、あの場所で出会ったときから――。

いや、きっと空に流れ星を見つけたその瞬間から、決まっていたんだ。

「じゃあさ、二番目に覚えるのがこんなモノで悪いんだけど――」陽一

これも何かの縁だ、とことん、付き合ってやろう。

「?」アリエス

「僕の名前は、日向陽一。よろしく」陽一

「ヒナタ――ヨーイチ?」アリエス

「ああ、陽一だ」陽一

「……」アリエス

「はい、ヨーイチ。よろしくです」アリエス

にっこり。

……。

――宇宙人?MIB?そんなバカなことがあってたまるか。

この子はきっと、何かの不幸な事故に巻き込まれたんだ。

そして、記憶を――自分以外のすべてを失った。

「ヨーイチヨーイチ、ヨーイチヨーイチヨーイチ」アリエス

「っておい!連呼するなー!」陽一

「…え?」アリエス

不安そうに眉を寄せる。

「よんだらダメですか?」アリエス

「いや、呼ぶのはいいんだけどさ。人の名前は繰り返して呼ぶものじゃない」陽一

「ヨーイチ」アリエス

「なんだ?」陽一

「一回だけよんでみました」アリエス

にっこり。

……かなり変な子なのかもしれない。

「ところでそれ、飲まないのか?」陽一

もうすっかり冷めてしまっただろうミルクを指さす。

「ぁ…えっと……」アリエス
マグカップと僕を交互に見つめて、もじもじ。

「……どうやってのむですか?」アリエス

「――は?」陽一

記憶喪失って、そういうことまで忘れてしまう物なのか?

「どうって言われてもな……」陽一

説明のしようがない。

そんな当たり前のことも知らないなんて、やっぱり宇宙人なのか?

――あ。

「もしかして、ストローが欲しいって事か?」陽一

「あ、はい。ストローがあったら飲めます」アリエス

…………ただのお子様?

「とりあえず、お腹の虫は落ち着いたようだな」陽一

「はい、すごくおいしかったです」アリエス

からんと、カップの中でストローが揺れる。

――不思議なものだ。

ストローという単語や、それをどう使うかという知識は残っている。

ただ、自分がドコのダレなのかといったような記憶が抜け落ちているのだ。

僕の時もそうだった。

『記憶』喪失――文字通り、そういうことだ。

「ま、ゆっくり休めば記憶も戻るかもしれないな」陽一

僕もそう言われた。

けど、戻らなかった。

「今日のところはもう一眠りするか。まだ朝には早いみたいだし」陽一

現実逃避だろうか?

でも、一時的な記憶喪失の可能性だってある。

…ただ、僕がそうでなかっただけで。

「あの…」アリエス

「ん?」陽一

「アリエスがねていたベッド、ヨーイチのですよね?」アリエス
「ああ…いや、気にしなくていいよ」陽一

「空いてるベッドはあれしかないし、僕はここでも平気だから」陽一

両親の部屋にもベッドくらいあるはずだけど、もうずっと使ってないし鍵だって掛かってる。

今から開けて掃除するというわけにもいかないしな。

「でも…」アリエス

「いいからいいから。そんなこと気にするなって」陽一

けど、確かにソファーで寝るというのは窮屈だ。

――なんだか変な夢を見た気がするし。

煌めく白い光と、揺れる赤い光。

そして、漂う死臭――。

……やっぱり、あの夢って……。

……。

「……ヨーイチ?」アリエス

よっぽど険しい顔をしていたのだろうか?

不安そうな瞳で、アリエスがこっちを見ていた。

「ああ、ごめん、なんでもないんだ」陽一

「そんなに痛むですか?」アリエス

そっとアリエスが手を伸ばし、僕の頬に触れる。

チリッと火が散るような痛覚。

すっかり忘れてた――学校での一件で頬に怪我をしてたんだっけ。

たいした傷じゃなかったからもう塞がりはじめていたけど、触れられるとさすがに痛い。

さっきの騒ぎで傷が開いてしまったのか、触れたアリエスの手に血が滲んでいる。

「いや、いいんだ。これくらい何ともない」陽一

「だめです。じっとしててください」アリエス

「ん?」陽一

「動いたらめ、です」アリエス

なぜか怒られた。

アリエスの指が頬をなでる。

それがなんだか、温かくて、心地よくて…。
いや、だから痛いんだってば。

…あれ?

痛くない。

「はい、おしまいです」アリエス

アリエスが手を離す。

「どーですか?もうへーきですか?」アリエス

「アリエス――今、何をやったんだ」陽一

「えへへ…」アリエス

頬をなでて確かめてみる。

かさぶたが消えていた。

それどころか傷があった痕跡すらない。

アリエスは、得意そうに微笑んでいた。

結局、一階で寝ると言って聞かないアリエスを残して、僕は自分のベッドの中にいた。

外はもううっすらと明るい。

だけど、体が疲れすぎていた。

ほんの少しの間に、いろんな事があった。

流れ星を追いかけて、部長に鉢合わせ、アリエスと出会った。

そのアリエスは、記憶喪失で、しかも僕の頬の傷を……。

「……」陽一

寝よう。

一眠りすればきっと頭も働くようになる。

アリエスもおとなしく寝ていてくれればいいんだけど…。

ボロボロになった服の代わりに、シャツとズボンを渡しておいた。

男物だけど…まぁ仕方ない。

ちゃんと着替えてくれているだろうか?

「……」陽一

ああ、さっきからベッドに横になっているのに、考え事ばかりでなかなか眠くなってくれない。

頬に手を這わせる。

何故、傷は消えたのだろうか。
僕は知っている気がした。

彼女の手が触れた瞬間の、あの温かさを…。

だけど、いくら考えても思い出せなかった。

ようやく眠気を覚えてきたので、僕は目を閉じた。

……。

…………。

………………。

あいつの手が、触れていた。

あいつの小さな手が、ぼくの赤く剥けた膝小僧に。

「――、――、――――」?

やさしく紡がれる、それは呪文。

例えば流れ星に願いを掛けるような。

例えば窓にてるてる坊主をぶら下げるような。

そんな、たわいもない祈りだった。

だけどぼくは、あいつの手の平の温かさが心地よくて。

じっとそれを受け入れていた。

「――――、―――」?

気がつけば、痛みは消えていた。

……………………。

………………。

……う…。

…朝…?

目を開けるとそこは、僕の部屋。

起き上がると、なんだかやたらと体がだるかった。

今、何時だろう――。

……は?昼過ぎ!?

おかしいな、いつもはちゃんと目覚ましを掛けてるのに。

今が春休みでよかった。

目覚まし、無意識のうちに止めたのかな?
思考を巡らせる…が、

ピンポーン

あれ、お客さんだ。

「はいはい、今出ますよー」陽一

ぐしぐしと頭をかきながら僕は――。

「!?」陽一

なんだ。今ソファーの上になんか変なのがいたような…。

おそるおそる振り返る。

「……」陽一

そうだ、しまった、忘れていた。

というか正直、夢だったらいいのにと思っていた。

確か名前はアリエスとかいったっけ?

渡したシャツに着替えてるのはいいとしよう。

でもなんで、下は穿いてくれてないんだ。

男物だから抵抗があるのは分かるけどさ……。

ピンポーン

ビクッ

ヤバい、こんな所誰かに見られたらおしまいだ。

たぶん三分後には僕の両手に手錠がかかっている。

非常にヤバい。

「おいアリエスっ」陽一

「…くー」アリエス

くー?

「おい起きろっ。アリエスっ」陽一

「…くぅー」アリエス

ダメだこりゃ。

「……」陽一

くさい物には蓋、という言葉がある。

仕方ない、許せアリエス。
僕はだらしなく寝こけるアリエスを両手で抱えた。

「…んんー…?」アリエス

わ、もぞもぞするんじゃない、ただでさえアレな服がめくれて大変なことに!

……。

………!

……!?

…………。

……。

よ、よし、アリエスはとりあえず奥の部屋に押し込んできた。

これで万一リビングに誰かが来ても大丈夫だ。

ピンポーン

三度目のチャイムが僕を急かすように鳴る。

こんな時間にうちに来る人といったら、明香だろうか。

いや、あいつは確か、今日は何か用事があるって言ってた気がする。

じゃあ、もしかして部長?

…ああっ!

部長はアリエスをうちに匿えと言い出した張本人だ、様子を見に来たに違いない。

だったらなおさら早く出ないと!

しびれを切らした部長は、ドアを蹴破りかねない。

「すみません部長、今開けますね」陽一

「~~~ッ!!?」?

え?

今、ドアの向こうからものすごい殺気が漂ってきたような…。

「…部長?」陽一

「…………」?

「…………!!」?

「…だーれーがーヒーゲーかー!!!」?

この声は…あ、明香!?

ガチャ
「お…おはよう明香」陽一

「――――」明香

やばい、予想通り超不機嫌だ。

「ご、ごきげんよう明香お嬢様」陽一

「…へ~~~~」明香

言い直したけど無駄だ。

そもそも、ごきげんがよろしくない時にこの挨拶は間違ってる。

「へー。陽一君にとっては、このボクとあのヒゲは同列なんだ」明香

「い、いや、けっしてそんなことは…」陽一

「いっつもそう!陽一君はいつもいつもあのヒゲのことばっかり」明香

「や…それは…」陽一

「ヒゲは犯罪者予備軍なの!いつか絶対とんでもないことをしでかすんだから!!」明香

明香は頬をぷっくり膨らませて、静かな怒りの炎を燃やしていた。

明香は部長のことをヒゲと呼んでは、毛嫌いしている。

何がそんなに気に入らないのか知らないけど、まぁきっとそりが合わないという奴なのだろう。

一方の部長は、やけに明香にご執心で、ことあるごとに絡んでは宇宙部に勧誘している始末だ。

だから余計にややこしくなってるんだけど…。

「部長は悪い人じゃないんだって、確かに変なことはしてるけど」陽一

「そういうのは変態って言うの!」明香

それもそうか。

「ホントに…なんで陽一君はヒゲの肩ばっかり持つかなぁ」明香

「……ホモ?」明香

「人んちの玄関先で危険な発言をするなーー!」陽一

「ご近所に変な噂が広がったらどうしてくれる」陽一

「大丈夫。それはないよ」明香

「どうしてそう言い切れるんだよ?」陽一

「ご近所にはもう噂が広がってるから。陽一君はボクと付き合ってるってね」明香

にっこり、そんな恐ろしいことを口にする。

この笑顔の裏に、どれだけの憎悪が渦巻いていることやら…。
想像するだけで首筋が冷たくなる。

「お昼ご飯まだなんでしょ?」明香

「はい、作ってきたよ。一緒に食べよ?」明香

あああ…そんな、丁寧にバスケットに詰めてまで…。

そんなだから、根も葉もない噂が広がってしまうのだ。

僕が、この、西園寺明香(さいおんじあすか)と付き合っているって。

「ごめんね、朝来れなくて」明香

「陽一君がお腹空かせてると思って、いっぱい作ってきたんだよ?」明香

……。

わざとだ。

もう絶対、わざとだ。

「でね、空港に行こうとしてお家を出たところで連絡が来たんだよ」明香

「…飛行機が欠便になったから、一日遅れるって」明香

「なるほど。そりゃ気の毒に」陽一

「ホントだよ。もー、折角早起きしたのにー」明香

ということ、らしい。

それで時間が空いたのでうちに来たってわけか。

明香はクッションを胸に抱いて、ぶぅと膨れている。

まぁ、海の上の空港まで行ってから無駄足だとわかるよりはマシだろう。

この宮浦の町には、驚くべき事に空港がある。

しかも国際線も来ているし、実験的にではあるが衛星軌道上の宇宙ステーションとの往復便も就航している。

「そんなにふくれっ面では、せっかくのお顔が台無しですよ。さぁお嬢様、お茶をどうぞ」陽一

「ありがと――って、なにそれ、麦茶?」明香

笑顔、一瞬ですかお嬢様。

「僕に何を期待してるんだよ」陽一

「しかもペットボトル」明香

「いいだろ、お茶はお茶だ」陽一

「ぶーぶー」明香

ほっぺが更に盛大に膨らむ。
「お茶なんて生まれてこの方煎れたことないよ」陽一

…たぶん。

「そういえば、ヒマワリのお茶ってのがあるんだよ。この前ジョニーさんが煎れてくれたの」明香

ジョニーさんというのは、明香のトコの執事の名前だ。

なんと、明香の家には執事がいる。

明香は筋金入りのお嬢様なのだ。

…目の前でくつろいでいる女の子を見る限り、とてもそうは思えないけれど。

「ヒマワリ茶?飲んだことないなぁ。どんな味がするんだ?」陽一

「んー、ヒマワリっぽい味?」明香

よくわからない。

しかし、お茶、ねぇ。

何でもかんでもヒマワリを使えばいいってわけじゃなかろうに。

宇宙開発とヒマワリの町、宮浦。

ちぐはぐな取り合わせだが、確かにその二つがこの宮浦を象徴していた。

夏になれば丘一面にヒマワリが咲き誇り、そのバックでは青い空にロケットが飛んでいたりする。

…なんともシュールな町だ。

「あ、今度持ってきてあげようか。ヒマワリ茶」明香

「いらない」陽一

「ぶー」明香

「っていうかわざわざ煎れないよ、お茶なんて」陽一

「ボクが煎れてあげるよ。あ、お茶菓子はやっぱりヒマワリ煎餅だよねっ」明香

なんだか、顔が黄色くなりそうだ。

他にもヒマワリ石けんだとかヒマワリ枕だとか、ワケのわからないものが宮浦の町には出回っている。

もう、やけくそだとしか思えない。

「従妹が来たら、振る舞ってあげなよ」陽一

「もちろんそのつもりだよ。大盤振る舞いだよー」明香

まだ見ぬ明香の従妹に、合掌。

「でもなんだろね、急に欠便なんて。何か事故でもあったのかなぁ」明香

言ってから、しまったという感じで明香は口元を押さえた。
「……ぁ…」明香

「いや、気にしなくていいよ」陽一

もう、2年も前の話なんだ。

「ご、ごめんね…?」明香

「いいから」陽一

「……」明香

こうなってしまうと、もうダメだ。

明香は妙にあの事件のことを気にする傾向がある。

それはきっと、自分の名字が『西園寺』だからだろう。

西園寺グループ。

今や世界でもその名を知らぬ者はいないであろう、巨大企業グループだ。

西園寺グループの歴史は古く、明治初期の文明開化に端を発する。

元々はこの町で造船業を営む小さな工作所だったらしい。

一次大戦期に名を上げ、戦後は重工業のみならず精密機械の分野でも大成功した。

今でも望遠鏡のシェアの約50%は西園寺グループが押さえている。

そして前会長の時期に宇宙開発事業に着手。

この『ヒマワリの里・宮浦』を『宇宙開発とヒマワリの町・宮浦』に変えた張本人が西園寺グループ、という
わけである。

そして――。

2年前に僕が乗っていた高々度旅客機SA-DAN080型も、西園寺グループ製だった。

つまり…明香に言わせれば、あの事故の原因は自分の家にあるというのだ。

「あ…そろそろ、ご飯の準備しようかな」明香

「温め直してくるから、お台所貸してね?」明香

「あ、いや、それくらい僕が――」陽一

「いいからいいから。男はどーんと構えてなさい」明香

と、台所へ消えていってしまった。

……はぁ。

何を気にしているんだ、あいつは。

あれは単純に、不運な事故だった。
もしそうでなかったとしても、ただ西園寺家の娘であるというだけのあいつには、なんの責任もない。

けどそんなこと、いくら口で言ったってわかってはくれないだろう。

僕が、たとえ一人でもしっかりと生き、幸せにならなくてはいけない。

そうすることが、あの子供っぽくて責任感の強いお嬢様を納得させる唯一の方法なのだ。

けど…。

それでもやっぱり、台所で鼻歌交じりに料理をする明香を止める気にはなれなかった。

なぜなら、あいつはとびきり料理の腕のいい女の子で、僕はお茶を煎れるのさえめんどくさがるダメな男の子
なのだ。

その時、とたとたと廊下を歩いてくる足音があった。

「ふあぁ…」アリエス

寝ぼけ眼をこすりこすり、

「ヨーイチ…おトイレ、どこ…?」アリエス

「なんだ、アリエスか。トイレなら廊下の突き当たりだよ」陽一

「…はい…」アリエス

とたとた……

……。

って。

……アリエス?

アリエス!?

アーリーエースーッ!?

今、明香が来てるんだぞ!?

台所の気配を窺うが、何事もなかったように明香の鼻歌は続いている。

よかった、気付かれてはいないようだ。

いや、まだ安心は出来ない。

落ち着け陽一、まずは落ち着くんだ。

このまま何事もなくアリエスが奥に戻ってくれれば問題ない。

そう、万が一お腹を空かしたアリエスが匂いにつられて居間に戻ってでも来ない限り――。

…………。

……。

…戻ってくるよな。
むしろ戻ってこない方がおかしいよな。

……。

こうなったら、用を足したら可及的速やかに奥に戻るよう、アリエスに言い含めるしかない。

「アリエス」陽一

「……んー…?」アリエス

まだ寝ぼけているみたいだけど、大丈夫だろうか。

「今、お客さんが来てる。だからトイレが済んだら奥の部屋に行っていて欲しいんだ」陽一

「……んん…?」アリエス

「な、頼むよ」陽一

「……こくん」アリエス

わかったということなのだろうか?

「…おしっこ」アリエス

「あ、ああ、行っていいぞ」陽一

「あれっ、どうしたの陽一君?汗だくだよー」明香

「いや、なんでもない。それにしても今日は暑いなぁ」陽一

よかった、何とか間に合った。

「お、今日はチャーハンか」陽一

「うん、手抜きでごめんね」明香

「手抜きだなんてとんでもない。いつも助かるよ」陽一

「テレビの占いで、ラッキーアイテムはチャーハンだって言ってたから」明香

「…チャーハンはアイテムなのか?」陽一

「消費アイテムだよ」明香

「なるほど」陽一

明香は手慣れた様子でテーブルに皿を並べていく。

「はい。それじゃ、いただきます」明香

「いただきます」陽一

うん、うまい。

このかりかりした食感がまたなんとも――。

「ヨーイチ、おしっこー」アリエス
ぶっ!!??

半泣きになりながら、アリエスが飛び出してきた。

「おしっこー」アリエス

しかもなんだか不穏な単語付きで。

…なぜ。

…なぜなんだアリエス。

おそるおそる明香の顔色をうかがってみる。

「……」明香

あ、スプーン咥えたまま固まってる。

そりゃ…、そうだよな…。

明香は何をどう解釈したのか、汚らわしいものを見る目で僕のことをにらんでいる。

「あ、あのさ、ちゃんと説明するから…」陽一

「…………」明香

「昨日の夜、明香に電話した後――」陽一

「おしっこー!」アリエス

「……陽一君のバカーー!!」明香

…どうしたものか。

とりあえず緊急性を要するのは……。

アリエスを放っておくわけにはいかない明香に早くいいわけをしなければとりあえず、チャーハンだアリエス
を放っておくわけにはいかない明香に早くいいわけをしなければとりあえず、チャーハンだ

アリエスを放っておくわけにはいかないアリエスを放っておくわけにはいかない明香に早くいいわけをしなけ
ればとりあえず、チャーハンだ明香に早くいいわけをしなければアリエスを放っておくわけにはいかない明香
に早くいいわけをしなければとりあえず、チャーハンだとりあえず、チャーハンだ

アリエスを放っておくわけにはいかない明香に早くいいわけをしなければとりあえず、チャーハンだ明香に早
くいいわけをしなければアリエスを放っておくわけにはいかない明香に早くいいわけをしなければとりあえず、
チャーハンだアリエスを放っておくわけにはいかない

アリエスを放っておくわけにはいかない明香に早くいいわけをしなければとりあえず、チャーハンだ見れば、
内股になって太股をすり合わせてもぞもぞ。

見れば、内股になって太股をすり合わせてもぞもぞ。

…危険すぎる。

「トイレの場所、わからなかったのか?」陽一

「…ちがいます…」アリエス
「じゃあどうしたんだ?」陽一

「…つかいかたが……」アリエス

は……?

ああそうか、記憶喪失、なんだっけ。

けど、トイレの使い方まで忘れるか?

自分の時はどうだったのか――振り返ってみるけどよく覚えていない。

まぁそんな事はどうでもいいか。

「明香、悪いんだけど…この子をトイレに連れて行ってくれないか?」陽一

「は…はいッ!?」明香

突然話を振られ、明香はビクリと体を揺らした。

「や、だって女の子だし」陽一

「……おしっこ……」アリエス

「頼むよ、後でちゃんと説明するから」陽一

「……はぁ。約束だからね」明香

明香は渋々といった感じで、アリエスの手を引いて出て行った。

ふぅ、これで一安心。

……。

…なんて安堵してる場合じゃなかった。

アリエスのこと、どうやって明香に説明しよう……。

………………。

…………。

……。

時は過ぎて、夕刻。

なんで、こんな事になってるんだろう。

「アリエスちゃんって言うんだ。かわいいお名前だね?」明香

「はいっ」アリエス

アリエスは明香の膝の上に収まっていた。

「それにすっごい綺麗な髪。さらっさらで、ふわっふわ」明香

「えへへ…」アリエス
「んー。いい匂い。あ、でもちょっと汗臭いかな?」明香

「ア、アリエスは臭いですか!?」アリエス

「後でお姉ちゃんと一緒にお風呂入ろっか?」明香

「オフロ?」アリエス

「うん、こうやってね、たっぷり石鹸付けて、ごしごしごしーっ」明香

「ひゃ、はぅ、ひゃう~っ。くすぐったいですー」アリエス

……本当、なんでこんな事になってるんだろう。

一体トイレで何があったのか、部屋に戻ってきたときにはすでに、二人はうち解けていた。

連れション効果って奴だろうか。

…なんだか違う気がする。

「あの…明香、説明は?」陽一

「あ、そうだった!待って、あと10秒でアリエスちゃん分の充電するから」明香

なんだ、アリエスちゃん分って。

「10――…9――…8―…」明香

「くるしいです、アスカ、くるしいです!」アリエス

「7――…6―…」明香

「――!――――!!」アリエス

「おい明香、アリエスが――」陽一

「え……あ…、ご、ごめんねっ!?」明香

「ふやぁ~…」アリエス

アリエスはようやく解放され、くたりとソファーに身を沈める。

「災難だったな」陽一

「こくこく」アリエス

さて…アリエスのことなんとか誤魔化さないとな。

宇宙人だなんて言ったら、警察といっしょに医者まで呼ばれかねない。

もちろん、精神科医だ。

「アリエスは…」陽一

えっと、どうしよう。

「アリエスちゃんは?」明香
「…僕の従妹なんだ」陽一

「おじさんとこの娘なんだけど、こっちに遊びに来ることになって、うちで預かってる」陽一

あれ?似たような話、どこかで聞いたことがあるような……。

「…むー…?」明香

あ、これって明香から聞いた話そのままじゃないか!

しまったなぁ、さすがの明香もこれじゃ怪しむよな。

しかも『アリエス』なんて、どう考えても日本人の名前じゃないし。

「そうだったんだー」明香

「…へ?」陽一

「陽一君に従妹がいたなんて初耳だよ。しかもこんなにかわいい子!」明香

「そっかぁ、従妹ならここにいるのも当たり前だよねー」明香

「あ、ああ、そうなんだよ」陽一

こんなデマカセを信じたのか?

明香って意外と…お人好しなのかも。

「じゃあ、おじさんとこで暮らしてた頃、アリエスちゃんとも一緒だったんだ?」明香

うぐぁ、いきなりボロが出始めた!

「あ…ああ。でもたった半年くらいかな、一緒だったのは」陽一

「だから僕も、こいつのことそんなに詳しいワケじゃないんだ」陽一

僕が事故に遭ったのが2048年だから、2年前の夏。

で、この宮浦の町に帰ってきたのがちょうど1年前の春。

その間の約半年間、僕はおじさんの家にやっかいになっていた。

つまり僕の話では、その間アリエスとも一緒に暮らしていたことになるのだ。

…ホントはまだ出会って半日しか経っていないのに。

「そっかー、じゃあアリエスちゃんは――」明香

どうしようどうしよう、いっそこれ以上ボロが出る前に…。

「陽一君の、妹みたいなものだね」明香

――――え?

――いも、うと?

「…………」陽一
「どうしたの陽一君?急に固まっちゃって」明香

妹という言葉を聞いた瞬間。

得体の知れない何かが、僕の内で蠢いた気がした。

だめだ、何か答えないと怪しまれる。

「…そうだな、確かにアリエスは妹みたいなものだ」陽一

「いくらかわいいからって、妹に手を出したらお兄ちゃん失格だからねー」明香

「……おいおい、何言ってるんだよ。出すわけないだろ」陽一

なんだろう。

「でも不安だなー、陽一君エッチだしなー」明香

「だっ、誰が……」陽一

なんだろう、これは。

「あはは、冗談だよ、じょーだん」明香

吐き気がする。

「陽一君ったら、慌てすぎだよ」明香

頭がぐるぐるする。毛穴が粟立つ。

「って、陽一君大丈夫!?顔真っ青!」明香

「――え…」陽一

なんともない。

なんだったんだ、今のは。

「もしかしたら疲れてるのかも。昨日いろいろあったから」陽一

「またあのヒゲは…。陽一君も無理に付き合うことないんだよ」明香

「ちょっと早いけど、お風呂にする?疲れがとれるし落ち着くよ」明香

「あ…ああ、そうだな、そうするよ」陽一

「アリエスちゃんはボクと入るんだからね!陽一君は一人で入ってね」明香

「あ、当たり前だろっ」陽一

「じゃ、お湯張ってくるね」明香

「ふぅ……」陽一

湯船に首まで浸かり、手足を伸ばす。

外が明るいうちから入る風呂というのもなかなか気持ちよかった。
さっきの気持ち悪さも、すっかりどこかへ行ってしまったようだ。

それにしても、明香の奴がアリエスのことを素直に納得してくれて本当によかった。

耳を澄ませば、リビングできゃいきゃいと騒ぐ二人の声が聞こえる。

うちで匿う上で一番のやっかいごとは、明香だった。

あいつが納得してくれたなら、当分の間アリエスをうちにおいておけるだろう。

「……」陽一

って、僕はいつまでアリエスと一緒に暮らすんだ?

そりゃまぁ、悪い子じゃないみたいだし、深い事情もあるだろうから、アリエスさえよければいくらでもいて
もらって構わない。

――アリエスさえよければ、だ。

肝心の彼女は記憶喪失で、自分のことが全くわからない。

…どうしろって言うんだ。

部長から何か連絡があればいいんだけどなぁ…。

…トゥルルルルルル

電話?

あ、部長からかもしれない。

どうしよう。

よりにもよって風呂に入ってるときにかかってくるなんて…。

「はいもしもし、日向ですが……」明香

「……ヒゲ!?」明香

「え……なに?――死ねッ!!」明香

ガチャン!!

「……」陽一

あの温厚な明香に3秒で死ねとまで言わせるなんて、さすがは我らが宇宙部部長。

って、感心してる場合じゃないか。

とっとと上がって様子を見に行こう。

「ヨーイチヨーイチ、明香がこわいです」アリエス

「おーよしよし。対部長モードの明香には近寄らない方がいいぞ」陽一

「りょーかいです」アリエス

「あ、陽一君!さっきヒゲからの電話に遭ってねぇ…」明香
電話があったんじゃなくて、電話に遭ったのか。

「うん、聞いてた。部長、何か言ってたか?」陽一

「――――きかれた…」明香

「ん、なんだって?」陽一

「下着の色を訊かれたーっ!!」明香

…何やってるんだ、部長。

「もうサイテー、何あれ!?何であんなのがこの町で生きてるの!?」明香

「これ訴えたら勝てるかな?勝てるよね!?」明香

「ま…まぁまぁ、部長なりの挨拶だったんだと思うよ」陽一

「うー……」明香

「で、他に何か言ってた?」陽一

「知らないっ」明香

…はぁ。

しかし部長もよくわからない。

本当に明香に入部してほしかったら、もっとやりようがあると思うんだけど…。

「…お風呂入ってくるっ!」明香

「行こっ、アリエスちゃん」明香

「は…はいっ」アリエス

明香は、アリエスの手を引いてずんずんと歩いていく。

と、途中で立ち止まって、

「下着の色確認してヒゲに報告なんてしたら、陽一君もコロすから」明香

うわぁ。

こりゃ、明香が上がってくるまでリビングから出ない方がいいな。

女の子の入浴時間って、なんでこんなに長いんだろう。

ヒマだ……。

ふと、転がっていた新聞を手に取ってみる。

「……」陽一

UFO墜落事件については一言も書いてなかった。

平和な片田舎の新聞だ、もしかしたら一面トップになるんじゃないかとさえ思っていたから、これは意外だっ
た。

…少なくとも、僕の時は連日一面を飾った。

だからこそ、僕は自分のことが日向陽一だと知り得たわけだ。

もし事故が誰にも知られず、叔父が後見人を名乗り出てくれなかったら、僕は今頃、日向陽一ではなかったか
もしれない――。

そんな想像をすると寒気を覚える。

だけど今、それはもはや想像ではないのだ。

記念公園に墜落事故。

そんな記事はどこにもなかった。

代わりに、こんな記事が載っていた。

『宮浦市に隕石』

それは小さな三面記事だった。

隕石。

確かに僕も最初はそう思った。

けど、違った。

中には人がいた――アリエスが、いた。

それは間違いのない事実。

なら間違っているのは、この新聞。

いや、間違っているのではない。

意図的に書き換えられているのだ。

何のために?

事実を、隠すために。

…アリエスを、隠すために。

アリエスはいったい何なのか。

それは部長の興味の対象であり、僕のではないはずだった。

でも、公園で出会った少女は、記憶喪失だった。

星の降るようなあの夜、あの公園で、過去を無くした少女に出会った。

それは果たして、偶然の一致だろうか?

2年前、僕が記憶をなくしたあの場所で、今再び――。

……。
…………。

………………。

「おいしーです!!」アリエス

「あ~、ダメだよー。落ち着いて食べないと、のど詰まらせちゃうよ?」明香

「――ぅ、うぐ…ぐ……?」アリエス

「っておい、言ったそばから!?」陽一

「はいお水」明香

「それとストローもだろ。ほら」陽一

「ちゅるちゅる……ふぁ、ありがとーです」アリエス

口の周りに食べかすをくっつけたまま、にっこり。

なんてマナーのなってないヤツ。

記憶を忘れても礼儀忘れるべからず、って言うだろ?

…言わないか。

「あーあー、もう。こんなに汚して」明香

「えへへ…」アリエス

「誰も取らないんだから、落ち着いて食べていいんだよ?」明香

「とらないんですか…?」アリエス

なんでこっち向いて訊くんだ……。

にしても、アリエスの子供っぷりはなかなかのものだ。

風呂を上がれば濡れっぱなしの髪を振り乱しながら走り回るし、食卓に着けば料理が出てくる前からナイフと
フォークを握りしめて待つ。

こんなのが部長の言うように、国家規模の陰謀的な、宇宙規模の神秘的な謎を抱えた存在なのだろうか?

なんだか本当に、ただ従妹を預かっているだけのような気になってくる。

――従妹…か。

そういえば明香以外の人と食卓を囲むのは久しぶりだ。

こういう騒がしい食卓も、たまにはいいかもな…。

無邪気に笑うアリエスと、それに優しく応える明香。

そんな温かな光景を、僕はどこかで知っている気がした。

「そうだアリエスちゃん、今度お洋服買ってあげようか?」明香
「およーふく、ですか?」アリエス

――って。

いつの間にそんな話になってるんだよ。

「うん、もう春の新作が安くなってる頃だからね。きっと素敵な服が見つかると思うんだ」明香

「いや、そんなとこまで明香の世話になるわけには…」陽一

「え~?でもこの服、陽一君のお古でしょ?」明香

「アリエスはこのふく、すきです。いいにおいがします」アリエス

「んーまぁ、陽一君のシャツの匂いがいいって所は同意するけど」明香

なんでだ。

「アリエスちゃん、自分のお洋服は持ってないの?」明香

「えっと……」アリエス

げ……まずい。

「あ、いや…宅配便で送ってもらうことになってたんだけど、手違いで届いてないんだ」陽一

「じゃあじゃあ、もしかして他に着替えは?」明香

「……ない」陽一

「アリエスは、これでいーです」アリエス

「――ダメッ」明香

「女の子はお家の中でもかわいい格好しとかなきゃ、だよ」明香

「……かわいい?」アリエス

「そう。女の子はね、オシャレしないとイケナイの」明香

こういうところだけは、ホントお嬢様…っていうか女の子だよなぁ。

そういえばうちの高校を選んだ理由も『制服がかわいいから』だって言ってたし。

明香くらい家柄も頭もよければ、もっとふさわしい高校がいっぱいあっただろうに。

「オシャレ、ですか…」アリエス

「アリエスちゃんだって興味あるでしょ?」明香

「……はい」アリエス

ちょっと恥じらうように、アリエスは小さく頷いた。

「じゃ、決まり。明日…は無理だけど、明後日一緒にお買い物に行こ?」明香

「決まってない!」陽一
「え~」明香

「明香に買ってもらうわけにはいかない。ただでさえいろいろ迷惑掛けてるんだから」陽一

「迷惑じゃないのに」明香

「とにかくダメだ」陽一

「じゃあじゃあ、ボクの着れなくなった服をあげるってのはどう?」明香

古着か…それならまぁ、問題ないかな。

どっちみちアリエスの替えの服は必要だし。

「わかった、そういうことならありがたく使わせてもらう」陽一

「ありがたがらなくていいんだよー。ウチ、着れない服いっぱいあるし」明香

「へぇ、意外だなぁ。明香くらいの家になると、古いものはどんどん捨ててるイメージあったけど」陽一

「ん~、逆かな。捨てる必要がないの。お洋服専用の部屋とかあるからね」明香

あー、なるほど…。

「今度来るとき持ってくるね。あ、アリエスちゃんって、いつまでこっちにいるの?」明香

……え?

「…っと、それは…」陽一

思わずアリエスに視線を送る。

「?」アリエス

そりゃそうだ、わかるわけない。

「えっと、春休み中はいるんじゃないかな」陽一

「てことは、あと二週間くらいだね。うん、できるだけ早めに持ってくることにするよ」明香

あと二週間。

二週間で、この関係はどう変わっていくのだろう。

記憶喪失の二人と、西園寺家のお嬢様。

とても歪で不自然な関係だけど…。

二週間を過ぎてもこうして三人で食卓を囲めればいいな、なんて、僕はそんなことを考えていた。

「…送っていこうか?」陽一

「いいよそんなの。すぐ近くだしね」明香

すぐ…と言ったが明香の家はそう近いわけでもない。

歩くと20分くらいだろうか。
だからいつも、帰りが遅くなった時には送ると言うんだけど、断られなかったためしはない。

仮にもお嬢様なんだ、誘拐でもされたら…なんて考えてしまうのは、漫画の読み過ぎだろうか。

けど、さすがに誘拐はなくても、痴漢やひったくりが出ないとは限らない。

なのに明香は送らせてくれない。

やっぱり僕のことを頼りにならないと思っているのだろうか。

まぁ、気にしても仕方ないか。

「じゃ、またね、陽一君、アリエスちゃん」明香

「さよなら、です」アリエス

「ああ、今日はありがとう」陽一

明香が帰ってから、部長に電話をした。

アリエスが記憶喪失だということを伝えると、部長はひどくがっかりした様子だった。

彼女の記憶から何かがわかると考えていたのだろう。

『しかしとなると、少々手詰まりかもしれんな』銀河

『どの新聞にも、UFO墜落の件は書かれていないか、書かれていたとしてもただの隕石扱いだ』銀河

「はい、うちの新聞もそうでした」陽一

『情報規制がかかっている…そう考えて間違いないだろう』銀河

『つまりそれだけの力を持った組織がバックにいる、そういうことだ』銀河

「バックに謎の組織…まるで映画やドラマですね」陽一

『うむ。俺も未だに信じられんよ』銀河

『だがしかし、確かにその少女――アリエスといったか?彼女は存在する』銀河

『それだけは疑うことの出来ない事実なのだ』銀河

振り返ると、アリエスは熱心にバラエティー番組を見ていた。

『今日は各所の情報を漁っていたのだが、どこにもそれらしいデータはなかった』銀河

『どこかの国の軍事演習中の事故かとも思ったのだが、その線も薄そうだ』銀河

「じゃあアリエスはやっぱり――?」陽一

『かもしれんな』銀河

一番信じられない結論。

その結論にたどり着いてしまうということだろうか。

「けどアイツ、バラエティーなんかを楽しそうに見てますよ」陽一
『あの、ヤラセで全国を旅する番組か?今、丁度うちの秋桜(こすもす)も見ているぞ』銀河

ああ…だから今日は邪魔が入らないのか。

『俺は明日、墜落地点を調査に行こうと考えている』銀河

「なら僕も行きますよ」陽一

『いや、日向君は例の少女の相手をしていてやってくれ』銀河

『今は彼女こそが最大の証拠なのだ、彼女の警護を怠ることは出来ん』銀河

『――それに、日向君はあの場所は苦手だろう?』銀河

…あ。

記念公園――昨日は思わず行ってしまったが、できればあまり近寄りたくない場所だ。

「わかりました、公園のことは任せます」陽一

『うむ。それでは何かがわかったら、また後日連絡しよう』銀河

「はい。ではまた――」陽一

『…あ、そうそう』銀河

「?」陽一

『今日の明香女史は黄色だと踏んでいるのだが、どうだったかね?』銀河

……えっと、黄色ってもしかして。

「どうだったって言われても、僕だって知りませんよ」陽一

『なんだ、今日はまだ見ていないのか』銀河

「……」陽一

『なんだねその沈黙は。もしや修羅場か』銀河

「…部長。僕たち、そういう関係じゃないですから」陽一

『なにっ!?それは真か日向君!』銀河

はぁ…まったく、部長にまで誤解されていたとは。

「明香とは昔からの知り合いってだけで、別に恋人とかそういうんじゃ…」陽一

『それはそれは、明香女史もかわいそうにな』銀河

「どういう意味です?」陽一

『気づいてないのかね。彼女、日向君にベタ惚れだぞ』銀河

…明香が?

……僕に?
「それは違いますよ部長、あいつはそういうフリをしておもしろがってるだけで――」陽一

『まぁ、日向君がそう考えたいのなら否定するつもりはないがな』銀河

『俺としては、早く明香女史が黄色か否かを報告できる関係になることを望んでいるよ』銀河

「もしなったとしても、下着の色なんて絶対報告しません!」陽一

…と、さっきまでテレビに夢中だったアリエスが、ぴくんと反応した。

うれしそうにテコテコと寄ってくる。

なんなんだ…?

「アスカは、水色でした!」アリエス

うっわぁ……。

電話の向こうで、部長が小さく舌打ちをしていた。

テレビを見て時間を潰していたらアリエスが居眠りを始めたので、僕はこっそり屋根に上がった。

星を見るためだ。

こうやって星を見る時間が、僕は何より好きだった。

人並みには星の知識もあるけれど、別に天体観測が趣味というわけではない。

ただぼんやりと、星空を眺めるのが好きなだけだ。

だから別に天文部には入っていない。

いや、あれば入ったのかもしれないけど、うちの高校には天文部がなかったのだ。

1年前、僕は高校に進学した。

いつまでも叔父の世話になるのは嫌だったので、わざわざ昔住んでいたこの宮浦の町の高校を選んだ。

幸いお金はあったし、昔住んでいた家も残っていたので、一人暮らしをすることにした。

それは幼い自分にとっては大いなる決断だと思った。

――だけど、本当の人生の分岐点はそのすぐ後に待ち構えていたのだ。

すなわち、部活選び。

最初は天文部を見に行くつもりだった。

だけど、その学校には天文部なる部が存在しなかった。

ちょうど1年前に、部員不足のために廃部になったのだという。

『星を見るなんて、今時流行らないのかねぇ』

元顧問の先生はそんなことを言っていた。

確かに、手を伸ばせば宇宙に届く時代、わざわざ望遠鏡で星を観察する酔狂者はいないのかもしれない。
だけど僕はそんなに落胆しなかった。

別に、星を観察したかったわけじゃない。

ただ星を見上げるのが好きだった――それだけだったからだ。

結局、僕が扉を叩いた部は、

『宇宙部』

この選択のせいで、僕の高校生活は一変した。

確かに、天体観測会とかプラネタリウムの製作とか、まっとうな活動もたくさんした。

けどそれらは、部長にとっては前哨戦に過ぎなかったのだ。

夏休みはロズウェル事件の再検証だとアメリカまで引っ張っていかれ、冬休みは自作ロケットで月へ行くのだ
と航空力学を勉強させられ…。

気がつけば、あっという間に一年が過ぎ、春休み。

ホント、何やってるんだろう僕。

けど、振り返ってみればバカらしい以外の何物でもないそれらの『部活』は、部長と一緒だとなぜかいつも楽
しかった。

かつて世界を沸かせた『雨宮』の名は伊達じゃないということだろうか。

だけどそんな部活だからか、僕が入部したとき、他の部員は部長こと雨宮銀河ただ一人だった。

いや、確か入部希望者は他にも何人かいたはずだ。

けど、悉く部長に難題をふっかけられ、しっぽを巻いて逃げていったのだ。

っていうか、『燕の子安貝』を持ってこいだなんて、あなたはかぐや姫ですか。

部長曰く、かぐや姫は宇宙部的に重要人物らしいのだけど…。

「ヨーイチーー!」アリエス

「?」陽一

足元を見てみると、ぴょこんとアリエスがベランダに顔を出していた。

「ヨーイチ、はっけんです」アリエス

「なんだアリエス、起きたのか」陽一

「そっち、いってもいいですか?」アリエス

「え…あ、気をつけろよ」陽一

よたよたと危なっかしい手つきで、アリエスがはしごを登ってくる。

「なにしてるですか?」アリエス

「ん…いや、星を見てるだけ」陽一
昨日も同じように星を見ていた。

そして流れ星を見つけたのだ。

その時、僕はなんて願いを掛けただろうか。

たいした願いではなかったような気がする。

「ほし…」アリエス

アリエスが感慨深げにつぶやいて、僕の隣に座る。

「わぁ」アリエス

それは、歓声。

「ほし…きれい!またたいてます!」アリエス

「天気がいいからな。昨日の夜もこんなだったぞ」陽一

「きのー…?」アリエス

覚えていないのも無理はない。

けど確かに、この空を、アリエスは駆けてきたのだ。

一つの流れ星になって。

「アリエスは何か、知ってる星あるか?」陽一

「えっと…うーん…」アリエス

しばらく悩んで、小さな腕を高く掲げて、

「つき!」アリエス

天頂の白い星を指さした。

それは、満月。

地球に最も近い天体。

僕と部長の目指している星だった。

「ああ、月だな」陽一

「えへへ…」アリエス

「他には?」陽一

僕は調子に乗って訊いていた。

アリエスが――記憶を失ったアリエスが、星の名前を知っていたことが嬉しかったのだ。

「えっと…たいよう」アリエス

「ああ、太陽も星の一つだな。今は見えてないけど」陽一
「そして――」アリエス

「………ちきゅう…」アリエス

「地球?」陽一

それは僕たちの暮らす星の名だった。

だけどアリエスの口から聞いたそれは、どこか遠い天体を指す言葉のように聞こえた。

――ちきゅう。それはどの星だろう?

思わず空を探してしまうような、そんな。

「じゃあ、あの星は知ってる?」陽一

僕は東の空を指さした。

昨日、明香にも教えた星だ。

「…あんなちいさなのにも、なまえがあるのですか?」アリエス

「うん、あれはスピカ。乙女座の α 星だよ」陽一

「……すぴか…」アリエス

「……」アリエス

「このいっぱいのほしぜんぶに、なまえがあるのですか?」アリエス

「全部じゃない。けど、明るい星にはだいたい固有名がついてるよ」陽一

「……」アリエス

それは、小さな衝撃。

この世は、溢れかえっているのだという、衝撃。

「じゃあ、あのほしはなんですか?」アリエス

「ああ、あれは――」陽一

こうして、空っぽだったアリエスの世界が輝きを取り戻していく。

どれくらいそうしていただろうか。

ぴたりと、アリエスが僕の体に寄り添ってきた。

「もしかして寒くなった?」陽一

「…ん、こうしてればへいきです」アリエス

小さな体から伝わる慎ましやかな温かさ。

僕は思い出していた。

頬に触れた、アリエスの手を。
「…アリエス」陽一

「…はい…?」アリエス

「昨日……いや、今朝のことかな。僕の頬の傷――あれ、どうやって治したんだ?」陽一

「…どうやって?」アリエス

「アリエスの手が僕に触れた。そうしたら次の瞬間、傷は消えていた」陽一

「はい、ヨーイチいたそうだったので…」アリエス

だから、治した?

当然のように、アリエスは言う。

考えてみれば不思議なことはもっとあったのだ。

最初にアリエスを見つけたとき、傷だらけだった。

僕も火傷を負っていた。

それがどちらも、今は消えている。

怪我を治す力。

傷を癒す力。

それは、奇跡、というのではないか。

「ヨーイチ、もしかしてまだ痛いですか?」アリエス

アリエスの手が、優しく僕の頬を撫でる。

そういえばこんなことが昔もあった。

僕は年相応の腕白小僧で、怪我をしてはよく泣いていた。

それを優しく撫でて、呪文を唱える――。

あれは一体、誰だったろう。

「もう、痛くないよ」陽一

僕はアリエスの手を取ってつぶやいた。

「なら、よかったです」アリエス

アリエスは月明かりの下、微笑む。

「…もう寝るか。これ以上ここにいたら風邪引くぞ」陽一

「あ…はい」アリエス

……が。

僕は後悔していた。
アリエスの寝床を確保するのを忘れていたのだ。

二日連続ソファーというわけにもいかないだろう。

リビングは広く、夜になるとけっこう冷え込む。

そんなところで毎日寝てると、本当に風邪を引きかねない。

だから今日は交代して、僕のベッドを使わせることにした。

僕なら下で大丈夫だろ。

「ぜったいダメです!」アリエス

部屋を去ろうとした僕の袖を、アリエスはギッチリと掴んだ。

「なんだよ」陽一

とてとてとて。

ぱたぱたぱた。

アリエスはかけ布団の端を上下させて僕を誘っている。

一緒に寝ようということらしい。

けど…それはさすがにまずいだろ。

なんというか、倫理的にさ。

「おひさまのにおいがするですよ?」アリエス

そうだろうな、まめに干してるからな。

「ふかふかですよ?もふもふですよ?」アリエス

なんだ、もふもふって。

「めざめぱっちりですよ?」アリエス

「よーし、じゃ電気消すぞ」陽一

「ヨーイチー!」アリエス

まったく、何が不満なのか。

けど、不満の声は電気を消した途端歓声に変わった。

そこに、満天の星空が広がったからだ。

「ほしが……いっぱいです!」アリエス

僕の部屋の天井には、蛍光シールで星空が描いてある。

電気を消すとそれが光って、まるで星空のように見えるのだ。

もちろん、本物には到底かなわないけど。
「あ、あれはシリウスです!そしてあれがベテルギウスで――」アリエス

アリエスは夢中で、さっき教えた星々を探していた。

「あれは…えっと……えっと……?」アリエス

「アルクトゥルス」陽一

まったく……しょうがないな。

アリエスが眠くなるまで付き合ってやるか。

「あれはなんですか?」アリエス

「レグルス」陽一

「『ス』でおわるものばっかりです」アリエス

「アリエスだってそうだろ?名前には多いんだ」陽一

「あ!ホントーです!」アリエス

アリエスという星座は、この小さな星空にはない。

これは夏の星空を模して作ったからだ。

いつか見せてやりたいな、自分の名前の由来となった星座を。

それはいつになるだろうか。

アリエス――牡羊座は秋から冬の星座だ。

ずっと先、サクラが咲いて、ヒマワリが咲いて、モミジが赤くなった頃――。

その頃また、アリエスと夜空を見上げることができるだろうか。

「ヨーイチヨーイチ、あれはなんですか!?」アリエス

「あれは――」陽一

そうやって夜が更けていく。

アリエスと出会って最初の一日だった。

その日、家族が増えた。

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